2025/01/23
音に潜む嘘
反訳屋スクリプ子の机の上には、いつものように録音機とヘッドホンが置かれていた。窓から差し込む午後の光が、キーボードの上に優しく降り注ぐ。スクリプ子は、法廷に提出される証拠テープの反訳を専門とする反訳者だ。十年の経験から、彼女の耳は人が聞き取れない細かな音の違いも捉えることができた。
「スクリプ子さん、この案件、明日までに頼めるかしら」
松田弁護士からメールで送られてきた音声データを見て、スクリプ子は軽くため息をついた。彼女の仕事は、ただ聞こえた言葉を文字に起こすだけではない。微妙な息遣い、言葉の間、背景音—それらすべてが法廷では重要な証拠となりうるのだ。
「長谷川製薬の内部告発者の証言です。絶対に外部に漏らさないでください」
メールには短くそう書かれていた。スクリプ子はヘッドホンを耳に当て、再生ボタンを押した。
「私が確認したデータでは、新薬『レスフィア』の副作用報告が意図的に隠蔽されています。特に、治験段階で20%の患者に肝機能障害の兆候が見られましたが、最終報告書からはその記述が削除されました。これは間違いなく高瀬部長の指示です」
男性の声は震えていた。恐怖と決意が混ざり合った声だった。スクリプ子は集中して聞き取り、一語一語を丁寧に入力していく。この証言は決定的なものだった。もしこれが公になれば、製薬会社は大きな打撃を受けるだろう。
しかし、彼女が三度目に聞き直したとき、何かが違和感を覚えさせた。話者の声のトーンが、証言の核心部分で微妙に変化していたのだ。まるで、別の録音からつなぎ合わせたかのように。
「おかしい…」
スクリプ子は音声編集ソフトを立ち上げ、波形を詳しく調べ始めた。そこには微妙な不連続性があった。一般の人なら気づかないほどの僅かな違いだが、彼女の耳は騙せなかった。
「これは、編集されている」
彼女は思わず立ち上がった。証拠として提出される予定の音声が改ざんされているということは、法廷に虚偽の証拠を提出する行為に自分が加担することになる。
迷った末、スクリプ子は松田弁護士に電話をかけた。
「松田先生、この音声データ、編集されています。つなぎ合わせの跡があります」
電話の向こうで、松田は沈黙した。
「…なぜそんなことがわかるんですか?」
その声には明らかな動揺が含まれていた。
「私の仕事です。波形を見れば明らかです。特に『高瀬部長の指示です』という部分は、別の会話から持ってきたものではないでしょうか」
「スクリプ子さん、あなたには黙って反訳だけをしてもらいたかった。余計なことを…」
松田の声には冷たさが混じっていた。
「これは倫理的な問題です。私は虚偽の証拠作成に加担することはできません」
「あなたにはわからないでしょう。長谷川製薬は数千人の患者を危険にさらしているんです。証拠が少し…不完全でも、彼らを止める必要があるんです」
スクリプ子は考え込んだ。もし松田の言うことが本当なら、多くの命が危険にさらされているかもしれない。しかし、それでも虚偽の証拠を作ることは正当化されるのだろうか。
その夜、スクリプ子は眠れなかった。彼女は自分のパソコンに保存されていた音声データをさらに詳しく分析し始めた。そして、驚くべき発見をした。音声の背景には、別の会話が微かに聞こえていたのだ。高性能ノイズキャンセリングを使い、彼女はその会話を抽出した。
「高瀬部長は確かに報告書を修正するよう指示しましたが、それは誤ったデータを訂正するためでした。20%という数字は初期集計の誤りで、実際は2%未満です」
これが本当の証言だった。スクリプ子は冷や汗を流した。松田弁護士は意図的に証拠を改ざんし、大企業を陥れようとしていたのだ。しかし、なぜ?
翌朝、スクリプ子は証拠を持って警察に向かう準備をしていた。その時、ドアをノックする音がした。
「スクリプ子さん、開けてください。話があります」
松田弁護士だった。スクリプ子は恐る恐るドアを開けた。
「昨夜、あなたが波形分析をしていたことがわかりました。あなたのパソコンには監視プログラムが仕込まれていました」
スクリプ子は息を飲んだ。
「なぜこんなことを?」
「長谷川製薬には私から娘を奪った責任があるんです。彼らの薬の副作用で…しかし証拠が不十分で訴えも認められなかった。だから私は…」
松田の目には涙が浮かんでいた。復讐に取り憑かれた弁護士の姿があった。
「でも、それでは他の無実の人々を傷つけることになります」
「私にはもう後戻りはできない。スクリプ子さん、あなたにはこのまま黙っていてほしい」
「それはできません」
二人は対峙した。そのとき、スクリプ子のスマートフォンが鳴った。彼女がセットしておいた録音データのバックアップが、クラウドに自動送信された通知だった。
「もう遅いです。証拠は安全な場所に保管されました」
松田は崩れ落ちるように肩を落とした。「私は娘のためにやったことなのに…」
数週間後、松田弁護士は証拠改ざんの罪で逮捕された。一方で、スクリプ子の分析により、長谷川製薬の新薬の副作用データが実際には適切に処理されていたことが証明された。しかし、この事件がきっかけとなり、同社の過去の薬の安全性審査に問題があったことも明らかになった。
その後、スクリプ子の元には様々な依頼が舞い込むようになった。彼女の鋭い耳と分析力は、単なる反訳を超えた真実の発見者として評価されるようになったのだ。
ある日、彼女は新しい依頼のファイルを開きながら思った。
「音声には嘘がつけない。どんなに巧妙に隠されていても、真実は必ず音の中に存在している」
反訳屋スクリプ子の新たな挑戦が始まろうとしていた。しかし彼女の心の中には、いつも疑問が残っていた。真実を明らかにすることが、常に正しい結果をもたらすのだろうか。松田弁護士のような人間の悲しみを思うと、答えはそう簡単ではないと感じていた。
それでも、彼女は自分の信念を貫くしかなかった。真実を聞き取る—それが反訳屋スクリプ子の使命だったから。